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札幌高等裁判所 昭和60年(ラ)25号 決定 1985年8月08日

本籍

北海道上川郡鷹栖町一〇線一〇号一番地

住所

北海道上川郡鷹栖町一〇線九号一番地

抗告人

三島幸

除籍前の本籍

島根県八束郡八雲村大字平原二〇四番地

最後の住所

旧中華民国吉林省長春市北洞東区楊家店出雲開拓団

最後の所在

旧中華民国吉林省長春市西陽区菊水町千早

事件本人(今次戦争による生死不明者)

三島勲

昭和一七年一一月二三日生

主文

原審判を取消す。

松江家庭裁判所が昭和三八年三月八日にした事件本人に対する戦時死亡宣告を取消す。

理由

一抗告人は、主文同旨の裁判を求め、原審判の理由は不服であるというのである。

二よつて判断するに、

1  原審記録及び当審における審理の結果によると、原審判理由第三の一に説示の各事実(但し、原審判二枚目表一二行目〈編注・本号二九四頁四段一九行目〉の「新京市」の次に「西陽区」を加え、同裏七行目〈二九五頁一段二行目〉に「知るところによると、」とあるのを「述べるところによると、」と改め、同三枚目裏八行目の「事件本人の戸籍は、」から同裏一〇行目〈二九五頁二段一六行目〜同一九行目〉の「死亡とみなされ」までを「未帰還者に関する特別措置法に基づく島根県知事の申立により松江家庭裁判所が昭和三八年三月八日事件本人に対してなした戦時死亡宣告が同月二五日確定したことにより、事件本人は昭和二〇年一二月三一日死亡したものとみなされ、同人の戸籍は、」と改める。)のほか、次の事実が認められる。

(1)  鑑定人石橋宏が鑑定の際に参考とした劉の血液型は、同人が中国残留日本人孤児として来日した際の昭和五九年二月二六日日本赤十字社中央血液センターが検査したもので、その判定結果につき疑念をさしはさむべき事情は認められないこと。

(2)  劉の歩き方は抗告人の弟である三島芳のそれに、また、同人の容貌や物腰は、和江の弟成一や同人の母方の従兄である竹田義一、竹田邦清、竹田仁のそれに、それぞれ酷似していること。

(3)  劉の少年期における容貌は、渡満前の抗告人、和江の従兄らの少年期におけるそれに酷似していること。

(4)  勲の乳児のころの容貌が、劉の息子の乳児のころのそれに酷似していること。

2  上記認定の事実関係をもとに検討するに、抗告人の記憶する勲の行方不明時の状況と、劉の述べる養家に引取られたころの状況は、その時期、場所及び推定される年令が大きく異なつていることが明らかである。

しかしながら、本件記録によると、劉の述べた状況はいずれも第一の養父であつた劉乗文の養子ら(昭和二一年当時七才の女児と六才の男児)からの伝聞によるものであるというのであり、さらに同人らには空想癖のあつたことも窺えるから、これを全部真実として比較検討することは相当でなく(当時延吉市天橋嶺の警察署長であつた樽橋達四郎には該当するような男児がいなかつたことが明らかであるし、事件本人が昭和一九年九月一七日生れとして登録されている理由が明らかでない。)、また、劉は、長春市から数百キロメートル離れた延吉市において就学し、今日に至つているというのであるが、同人の第一の養父である劉乗文が上記認定のとおり長春市のほか各地を転々としたというのであるから、同人が長春市において劉を引取り、各地を転々とした後に延吉市に住居を定めたものとも考えられるのである。そうすると、前記のとおり血液型の遺伝学的検査において、劉は抗告人を父とし、故せつを母として生れたものと考えても矛盾はなく、顔貌類似性検査においても抗告人と劉の父子関係を否定することはできないとされているほか前記認定の各事実を総合すると、劉が事件本人と同一人物である蓋然性は極めて高く、かつ事件本人が現に生存しているものと認められるから、本件戦時死亡宣告はこれを取消すべきものである。

3  よつて、これと結論を異にする原審判は失当であるから、これを取消して、本件戦時死亡宣告を取消すこととし、家事審判規則第一九条第二項を適用して、主文のとおり決定する。

(舟本信光 吉本俊雄 井上繁規)

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